幻灯架  鳩野 深透
2003夏 『追憶の楽園』収載


 とけそうに白い光が彼を濡らす。
「……兄さん」
 窓の外を見ているようなその人が、めずらしく自分より先に起きていて驚きのあまり声が漏れた。
ささやか過ぎる声のせいか、彼はとまどうようにゆっくりと振り向く。
長い夢を見ていたのだと思う。
「怖い夢を、見たよ」
 あなたを酷く傷つける夢を見たんだ。
彼は、きょとんとしてから花のように笑う。そんなことで、そんなに悲しそうな顔をしないで。
華奢な身体がベッドに膝でのぼってきて、おおきな瞳がのぞき込み無防備に抱きつく。ニュアンス的には抱きしめる、が近いけれど、そう言えるだけの体格差ではなくなって久しい。
視線を合わせ、とまどうようにひたいにくちづけてかすかな違和感を見過ごす。
それでもそのやわらかな体重が愛しくて、彼は兄と呼ぶ人を抱きしめた。
脳裏を掠めるのは、雨の記憶。
――この白い肌を衝動のまま無残に暴いたあの日。


汚れた手はあなたの痛み。
苦い舌はあなたの涙。
自分のプラセボとなるように彼に刻んだ傷を数えて。
「どこに行くの?」
「どこにも、いかないで」
不安で、息がつまる。寝床が悲鳴のようにきしんだ。それとも本当に悲鳴だったのかもしれない。
確かにその細い腕を捕らえたと思ったとき、幼い火がちり、と掠れたように揺れた。

***

 腹が灼ける。
生温い液体が臓腑を這い身体を抜け喉を伝って口の端を零れ。
――こいつもちゃんと血は緋いんだな。
おそらく言葉ではないその声に、彼は死の淵から、呪い殺さんばかりの視線を叩きつけた。
「悪いな、お前の一族を相手にするのは初めてじゃないんだ」
「…化け物め…!」
 その男は黒かった。
 星の稜線を真っ赤に染め上げて華々しい砂漠の落日のような、その日の空を真っ先に切り裂いて昇る黎明の竜にも似た太陽のような美しさを闇の中に孕んで比類ない。
黄金の。
「――それは」
 男が、低く笑う。
「お互い様だな。――『ティーロ・ニザリ』」
 鉄骨の破片で蝶番が馬鹿になっていたのだろう。カツン、とスクリーングラスがその足元に落ちる。
その姿は彼がいつか酷く憎んだ男によく似ていたが、その美しい声ももう彼の耳には届かなかった。

***

 花のように、笑う。
華奢な姿がそのたび揺れて、ティーロは何度も目をこすった。
「どうしたんだ?目、痛いのか?」
 綺麗なオレンジ色の瞳に覗き込まれ、彼は息が詰まって思わずのけぞる。
「ち…違うよ」
 不審そうな表情に、慌てて手をふった。
「ちょっと、眩しいだけ」
「それならいいけど」
 小柄な身体がふっと離れ、ぱたぱたと歩いて部屋中の窓を開ける。
やわらかな髪が揺れる。白い項が光に透けるようだ。細いくるぶしが、どうしてか悲しかった。
 後ろ姿があんまりきれいで。
「兄さん」
息が――詰まる。
ここはどこだ。
「お前が、もし『彼の息子』を消すことができるなら」
 無機質な声があの日、言ったのだ。
「兄を連れ戻しその記憶を消して、ただ幸せに、二人で幸せに生きていくことができる」
自分は、それに、
なんと答えたのだったろうか。
ベッドから起き上がり兄を追って、
細い、腕を。
違う違う違う。
これは。
――汚れた手はあなたの痛み。
苦い舌はあなたの涙。
だから、
今更そんなことを夢想していたはずがない。

***

 指先が冷めるようだ。
 血の匂いがふいに、冷たい鉄骨に滲む。
目の前で幾分幼いような彼が、気づいてなお微笑った。
「ティー」
ああ、これは幼い記憶だ。
「ティーはいい子だな」
それはあの人の笑顔。
「その鳥は、放してあげないとだめだ」
悲しそうな顔でいつか、言った。
「どれだけ愛しくても、いつかきっと後悔するんだよ」
それでももう、戻れないというのに。
その儚さとやわらかさが波のひくように、花が散るように静かに僕を壊していったのだとあなたはきっと一生気づかない。
その代わりに刻みつけた自分にはこの行末が酷く似合う。
それでも最初は確かに、傷つけたくなど、なかったのに。
臓腑を抉る金属の下、苦しい息で呟いた。
「本当はずっと、笑って欲しかったんだ…」
 自分の傍で。
 幼い火がちり、と掠れたように消えた。