bagatelle  鳩野深透
2006冬『奥様は暗殺者』収載


 「私たちの関係は、秘密にするべきだと思うんだ」
 いかに押し切られようと、これだけは言っておかなければいけないと決意した声音で兄はひそやかに言った。
 だが弟にしてみれば、その言葉はいささか時機を失しているように思えた。


「何が?」
 有体に言えば、今更?と聞き返したい気分だったがティーロ・ニザリはそうは言わず、わざと相手に具体的なことを言わせようとしてみる。案の定カジャは答えというより言葉に窮し、手持ち無沙汰に角砂糖を次々とカップに放り込みはじめた。兄さん、それはココアだよ。この質問は早々に許してやることにして、
「僕が兄さんのお嫁さんになるってこと?」
 まあそういうことだ、と言いたげに小さく咳払いが聴こえ、白い頭はあいまいに頷いた。彼にも似合わない気弱な態度に、ティーロは苦笑しておとなしく答えた。
「……いいよ」
「ほんとうか?」
 弟と呼ぶ相手の駄々を前提に気負っていたカジャは、呆気なさすら感じて安堵の溜息をつく。
「だって考えてみなよ、改まって誰にこんなこと報告するの?元々一緒に暮らしてるし、姓が変わるわけでもないし」
「……それも、そうだが……」
 納得した相手に軽く肩をすくめてみながら、それでも職場にはこのことを伝えておかないといけないかな、とティーロは思っている。既婚者になったからといって司令の悪趣味がおさまるとは思いがたかったが、抗議の一理由には充分すぎるほどだろう。それに、猛者に襲い掛かられた際の反撃の決め台詞も魅力的だ。
「僕は人妻だから!」
 彼としてはそう言い放ちたい。人妻、いい響きだなあ。愛くるしいご主人さまを護って戦うんだ。
 任務においては彼が護るのは唯一自分自身の貞操に過ぎないが、そういった無粋な事実は夢想においてはいとも簡単に消し去ることが出来る。彼の妄想家としての素質は一流だった。
 それに、夫婦生活を続けていけば、周りの人間もいずれは二人の関係に疑問を持つに違いない。もしそれについて誰かから問われたときに、自分がどう返すかはその時決めるつもりだ。しかしこの種のことでは壊滅的に隠し事が出来ない兄が、自らどんどんボロを出していっても、ティーロは別段それを責めるつもりはない。
……種々の物事に想像力を飛翔させた後に、彼の精神はフォルテピアノの流れる喫茶室に戻ってきた。
「じゃあ、そろそろ行こうか?まだ買い物の続きがあるしね」
「うん、指環を取りに行くんだったな」
 ティーロのきれいなご主人さまは、にこりと笑ってカップの残りを一息に飲み干した。その底にはもちろん、溶けきらなかった砂糖が沈殿しているに違いなかった。それに気づいた妻が声をあげるより早く、カジャは高濃度の糖分にむせ返った。 


 選んだのは銀色に朝靄でつや消しをしたような、なめらかなカーブの指環だった。
 ひやりとした質感に慣れない指の節くれはまだ違和感を主張するが、ここ数日中にはきっと馴染むだろう。
 互いの指を絡めるたびに、微かに金属の音がする。それは例えば、鍵をかけられた音に似ていて、その連想は彼を何度でも幸福にした。